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終章 【時代の暁】
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―――勝利。
塵となって散っていったアルドゥインの姿を、見ていた。
その身体に宿した『死』の力が、消えて行くのをこの目で見届けた。
辺りには―――静謐。
先程までの死闘がまるで嘘のように。
とてもとても、静かだった。
終わった。
短くも長かった闘い。
もがき、喰らいつき、心折られ、闘志潰えようとも、なお立ち向かい。
老竜による『眼』の力と、果てしなき知恵を備えた『賢者』と、魂に響いた『あの子』の声が。
この闘いを、終わらせてくれた。
『うおおおおぉぉぉーーーッ!!』
歓喜。
高揚。
ジードは叫ばずには居られなかった。
――己はやり遂げた。
――成し遂げたのだ。
達成感に身を震わせ、勝利の雄叫びが腹の底から出でた。
その咆哮を終えたが同時、背に生えし翼が折りたたまれるようにして消え去る。
戦闘を終えた肉体が、もはや飛翔する必要がないと判断したからなのかも知れない。
少なくとも、ジードにとっては無意識だった。
『パーサーナックス…… アリア…… ベリー…… ありがとう……!』
思わず、それは声として口から洩れた。
胸中に抱いた、皆への感謝の言葉。
闘い抜いた自分自身への賛辞も含めて。
それに続いて洩れたのは、安堵の吐息。
持ちきれぬ程の重みを感じてた肩の荷が、降りた。
そして―――
『……これは……?』
自身の身体の異変に、気付いた。
竜の力によって目覚めた炎とは違う、白い炎が身を包んでいた。
そしてそれは、弾けて昇る。
同時に――――
―――からん。
ジードの手から『牙』……いや剣が、転がり落ちた。
転がり落ちた?
いや、落としたと言うべきだった。
何故なら、その指先には力がまるで宿っていないから。
『ああ……』
ジードは、呟いた。
己の脚に広がる、亀裂を見て。
その亀裂はすぐに全身を覆った。
軋み、揺れ、粉塵を撒きながら。
亀裂の走った自分の手を、まじまじと眺める。
ジードには、解っていた。
絶大なる力を蓄えた『竜の眼』を宿し。
肉体を細部まで守護する『魔具』と。
ドラゴンすら切り裂く魔法の『剣』を持ったその時から。
こうなるかもしれない事は、知っていた。
そしてそれに対する覚悟も、問われていた。
自らを奮い立たせてくれた『声』の力を受け取ったのが、まさに最後の一押しだったのかも知れない。
ジードはたまらず、地に両膝を着く。
力が、入らない。
身体から立ち昇る白炎は、更に勢いを増してゆく。
『……悔いは……無いさ……』
誰に対して聞かせる訳でもなく零れた其れは、自分自身に言い聞かせているのかも知れなかった。
―――定命の者と呼ばれる、常人が。
―――運命の奔流に身を任せるしかない、一介の人間が。
―――『神』と呼ばれる存在に翻弄されるしかないだけの、存在が。
―――抗ったのだ。
―――抗えたのだ。
―――運命を、勝ち取ったのだ。
心が充足に満ちることあれど、後悔などはありはしなかった。
ジードは――――考える。
今までの自分自身を、省みる。
砂漠で馬を駆り、海辺でリュートを奏でていた頃を。
右目を失い、絶望と憎悪に身を焦がした屈辱の頃を。
生きるためとは言え、数多の命を奪ってきた『首狩り』と呼ばれし頃を。
目的を果たしても尚腐る心を持て余した頃を。
――――しかし。
違う、そうではない。
その頃ではない。
―――そう。
―――この頃だ。
―――楽しかった、あの頃。
―――楽しかった、あの頃……。
―――懐かしい。
―――懐かしい……。
―――いつからだろうか。
―――あの子と……
―――ベリー・ベリーと共に過ごした日々が、全てを翳(かげ)らせるほど目映くなったのは。
後悔など、ありはしないと思っていた。
そう思っていた。
だが、あった。
そう、無いはずがない。
ジードは、自身の胸に去来した愛しく切ない感情を、噛み締めた。
そして―――
『また、一緒に………きみと……旅を、したかった……』
嘘偽りの無い言葉を、口にする。
『出来る事なら………きみの……成長を……もっと、見た……かったよ……』
ジードは、天へとその腕を伸ばす。
それが、決して届かぬと知りながらも。
亀裂が、一層深く。
そして、白炎は一層激しく。
『さよう……なら…… そして、あ………りがとう……… ベリー……』
――猛々しき炎が、舞い上がった。
―――目を眩ますほどの、まぶしい火柱が立ち起こった。
―――ドラゴンが、最期にその身を焼くのと同様に。
―――限界を越えた肉体を。
―――許容を越えた魂を。
―――その全てを、果てさせた。
そして―――死闘の場となったソブンガルデの地に、一本の剣が残った。
猛き炎を宿した、禍々しい形状の、剣。
―――誰もが持ち主を知らぬ、剣。
―――ただ、それだけが残ったのだった。
――――――――
――― ―――
――――
蒼天の空に、赤き色が広がる。
真紅であったであろうそれは、白き雲と混じりて薄紅色となった。
「見える、見えるぞ……奴の魂が。アルドゥインの魂が、四散していくのが……!」
兄弟、であるアルドゥインの終焉をいち早く感じ取ったのは、老竜パーサーナックス。
驚嘆の声をあげるや否や、すぐにそれを潜める。
「そして……ああ、『愚か者』よ……済まぬ……やはり、こうなってしまったか……」
懺悔にも似たその呟きは、空へと吸い込まれてゆく。
赤く染まった空を眺めていたのは、老竜パーサーナックスだけではなかった。
「おお……信じられぬ……あの男、本当に……!」
黒き瞳と白き鱗を携えたドラゴン。
かつてスクルダフンで、『彼』と会話を交わしたドラゴンだった。
「なんという事だ……有り得ぬ、有り得ぬ事ぞ……!」
象牙色の鱗を携えたドラゴン。
先程のベリー・ベリーが放った、『ジードさん』、と言う声に反応し、それを確かめに馳せ参じたドラゴン。
「ふっはっはっはっはっ! 男よ、貴様を我が背に乗せた事、誇りに思ってやろうぞ!」
豪快な笑い声をあげる、赤い鱗のドラゴン。
オダハヴィーングはドラゴンである自身が抱く気質も忘れて、述べていた。
「……自由だ。我等はもう自由を謳歌しても良いのだ。何者にも縛られず、あるがままにあれば良いのだ」
橙色(とうしょく)の鱗を備えたドラゴンが口を開く。
このドラゴンも、かつてスクルダフンにてジードと言葉を交わした、ドラゴン。
「アルドゥインの魂よ、願わくばアカトシュのもと、ただ安らかであれ!」
「空よ、主に従わなかった我等の翼がその下を舞う自由を祝せ!」
ドラゴン達が、天を仰いで叫んだ。
そして各々が歓喜に翼を震わせ、風を感じる自由のために、振るった。
「舞えよ、泳げよ! 我等が翼よ! 新時代の暁に驚喜せよ!」
「アルドゥインは倒れた! 新時代の幕開けぞ!」
「響けよ、声よ! 讃えよ、大君主と共に果てたその尊き魂を!」
「歌えよ、皆よ! 届かせよ、声無き者の声の物語を!」
―――上空を旋回し、喜びを体現するドラゴン達。
天に木霊(こだま)するその雄叫びを耳にした人間達は、今頃は恐怖と驚愕に満ちているかもしれない。
だが、今だけはこの謳歌に水を差してはならない。
それは、アリアも、ベリー・ベリーも解っていた。
「……終わったのだ。長きに渡って君臨していた王者、アルドゥインの支配が」
この場に居る人間二人にそれを告げたのは、老竜パーサーナックス。
「そして、我が双眸の波動も潰えた……」
その言葉が、どんな意味を持つのか。
アリアには、よく解っていた。
ベリー・ベリーには、よく解っていなかった。
「……済まぬ。しばし、我も空へ羽ばたかせて貰う」
「大丈夫なの? 今の貴方は、目が……」
アリアの気遣う声を余所に、ほつれ、擦り切れたその翼膜を広げて―――
老竜は、羽ばたいた。
そして―――
「霊峰にて声の道を求むる者達よ! 声無き竜へ祈れ! 哀悼を捧げよ、その気高く美しい魂へ!」
その悲壮と荘厳を交えた威風なる声は、空へと響き渡った。
他のドラゴン達と同様に、しばらく旋回すると、アリアとベリー・ベリーの前に留まる。
「例えこの瞳失えど、我はそれを嘆かぬ……お前達の心を思えば、それはしてはならぬ事……」
老竜からの言葉に答えるのは、ベリー・ベリー。
「あのぉ~、じゃりゅーは、いなくなったんですよねぇ? それじゃあ、ジー……おじさんは、どうなったんですかぁ?」
嘘、と言う概念が無いのか、その問いへ真実を乗せて、返す。
「アルドゥインの魂が散るのと共に、あの『愚か者』の魂も散るのが見えた……」
「すごい……! おじさん、本当にじゃりゅーを倒したんですね!?」
「……ドラゴンボーンよ……お前が起こした『奇跡』だ。お前が放ったあの『声』が……邪竜アルドゥインを打ち破る『力』を与えたのだ」
ベリー・ベリーは老竜の報告に、顔を輝かせる。
「お前の『声』に宿った力の片鱗が、あの『愚か者』の魂に混じった……それこそが正に、アルドゥインの誤算だろうな……お前の『声』の力は、それほどのものなのだ」
「えへへっ、照れちゃいますよぉ」
言葉のままに、照れ臭そうな微笑を浮かべる傍らの少女を――――
―――じ、と見つめるのは、アリアだった。
「ドラゴンボーンよ!」
空から降りし声、その直後、厚い雪に覆われた地面が大きく揺れる。
少女―――ベリー・ベリーの隣に、オダハヴィーングが降り立ったのだ。
「お前の起こした奇跡、しかと見届けたぞ! それにしてもたいしたものよな、あの男! まさか本当に我等が主を打ち倒すとは!」
「えっへん。おじさんはすっごく強いんですからトーゼンですっ」
歓喜に胸躍らせるオダハヴィーングと同様の声音で返す、ベリー・ベリー。
まるで自分の事のように、嬉々として。
「ふはは! 我は人間が気に入ったぞ! ドラゴンボーン、用がある時はその『声』にていつでも我の名を呼べい! 可能な限り駆けつけようではないか!」
豪快に笑いながら口にした事だが、これは驚くべき事であった。
『声』にて名を呼ばれたら闘う、と言うのがドラゴン達の暗黙の了解であり、そして闘わずにはいられないというのが血の定めなのだから。
すなわち―――オダハヴィーングは、自らの血の定めを知らず知らずに打ち破っているのであった。
そして、残念な事に……それに気付く者は、この場に居なかった。
「わぁ、これで私達もお友達ですねぇ! ありがとうございますぅ、えっと、ゆきほぐ……なんでしたっけ??」
首をかくり、と滑らせる。
「そちらではない! オダハヴィーング!! 我が名はオダハヴィーングなるぞ!!」
まるで人間がやり取りするかのような、実に奇妙な一時と言えた。
「それじゃ、私のこともベリーって呼んで下さいねぇ? おだあびーんぐさん!」
「オ・ダ・ハ・ヴィーン・グ・だ!! まったく……名を間違えたら我は来ぬからな!?」
「はぁい、ごめんなさーい」
「それではまた会う日を楽しみにしているぞ、ベリーよ!!」
喜劇のような一幕の締めにそう告げると、オダハヴィーングは再び大空へと羽ばたいて行く。
そして……自由を謳歌するドラゴン達と共に、高き場にて旋回を繰り返していた。
「ほんとにすごいですね、おじさん……世界だけじゃなくって、ドラゴンさん達まで救っちゃったんですねぇ」
はぁー、と長く吐かれた其れは、溜息にも似ていた。
感嘆の極致と言わんばかりだ。
「ごめんなさい、ベリー……」
アリアからの言葉に、ベリー・ベリーは首を傾げている。
「なにが、ですかぁ??」
空を舞うドラゴン達に釘付けになりながらも、言葉を返す。
「……こうなる事は、予想はついていたの。パーサーナックスも、私も……そして、『あの人』自身も……」
「……先生。おじさんは、私を守るために戦ってくれたんですよねぇ?」
「ええ……あなたが、安らかであって欲しいと。あなたに笑顔であってほしいと……」
「……私、嬉しいです。おじさんが私のために戦ってくれただなんて、すごく……すっごく、嬉しいんですよぉ」
憂いの眼差しで見つめながら語るアリアとは違い、ベリー・ベリーは明るく、そして喜びを隠し切れないと言った声音で返してきた。
だが……アリアの眼差しは、変わらない。
「ベリー」
そして、静かで優しい声音で呼びかける。
「今からあなたにかける言葉は……先生ではなく、親として、母として、そして女としての言葉です」
「??」
「泣いていいのよ……」
――ぽろり。
アリアが掛けた言葉の終わりと同時に。
その灰色の双眸から、零れ落ちる。
「……お母さん…… 私……泣いても……いいん、ですかぁ?」
「ええ、泣いてあげて。あの人のために」
ベリー・ベリーは堰を切ったかのように、涙を溢れさせる。
「おじ、さん……」
ぽつり、と呟く。
「おじさん……おじさん……おじさん……!」
一度、また一度と呼称を口にする度に……少女の胸に押し寄せる感情の波は、強くなっていく。
そして、ついにはその小さな身体を震わせて―――
「わあああぁぁぁぁ~~~!!!」
泣き、崩れた。
「おじ、さん………おじさぁん……!!」
瞳から零れ落ちた涙が、雪を溶かす。
「うわあああああ~~~~ん!!」
悲哀。
そして、慟哭。
激しい感情に包まれ、幼子が泣くが如きその背を、ただ優しく見つめる『母』。
その身を震わせる程、ベリー・ベリーは嘆いた。
悲しみに膝が震えた。
瞳から涙がとめどなく溢れた。
胸が引き裂かれるかのような、痛みを感じた。
理由も無く指先が痛んだ。
それを慰めるわけでもなく―――風だけが、無常に頬を撫でていた。
凍えるような風が、現実である事を冷たく教えていた。
―――顔を上げた少女は、天を仰いだ。
「ありがとう………さようなら……………」
「……ジードさん………」
悲しみにつつまれた、世界のノドにいる者達。
そして、それを天より見下ろすドラゴンもまた、その一人。
涙を流せぬドラゴンは、ただ哀悼の意味を込めて咆哮を響かせた。
遥か遠くにも、届くようにと………。
―――――かくして、伝承は終わりを告げる。
――――運命に抗い、新たな時代の暁のために散った男がいた。
―――愛する者のため、全てを捨てた男がいた。
――その男の名は…… ジード。
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七章 【魂の劫火】 ■■■ 外伝 【そして心は竜によって紡がれる】