【1】
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兵士の憂鬱
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――――空は、何色だっただろうか。
―――地は、何色だっただろうか。
――水は、何色だったろうか。
――何故感覚とは、こんなに曖昧なんだろう。
――何故記憶とは、こんなに薄弱なのだろう。
「死ねぇぇっ!!」
「おらぁっ!!」
「死ね死ねぇぇっ!!」
「そらそらあ!」
――さっきから、ずっとだ。
――同じ言葉を何度も連呼して。
――うるさいなぁ……。
「もうやめてくれ!」
「殺さないでくれ!」
「ち、ちくしょぉぉ!」
「おかあ、さん……」
「あがぁぁっ!!」
自分の目は、何を捕えるためにあるのだろう。
鼻は、何を嗅ぐためにあるのだろう。
耳は、何を聞くためにあるのだろう。
腕は………脚は………身体は………何をするためにあるのだろう。
ああ、もう。
考えるのも、面倒になってくる。
一つ。
また一つと、音が止む。
煩わしかった喧騒が段々と治まっていく。
それとは相反するかのように拡がっていくのは、絡みつくような血の臭気。
血生臭い、とはよく言ったもので……この独特な濃密さを持つ血肉の臭いと言うのは、どうにも心を不穏にさせてくれる。
霧の中に佇んだときに鼻腔に纏わりつく湿気の不快感に、僅かな鉄錆の臭いを混ぜ込んだような。
本能が忌避するとでも表せばいいのだろうか。
本来『感じなくていいもの』とでも言うのだろうか。
知らなくていい事を知ってしまった時のような、あの後味の悪さ。
――頭がクラクラする。
――何も考えたくない。
――このまま眠ってしまいたい。
――全てが真っ赤に染まったこの場にとって自分など、有象無象だ。
――空も、地も、水も、人も、何もかも真っ赤なのだから。
――川原に並んだ沢山の石ころのうちの一つのようなものだ。
――ゆっくりと、ゆっくりと……このまま。
――――このまま……。
――…………
「エルヴァンス」
降り注がれた言葉に、『意識』が呼び戻される。
重厚で野太いながらも野卑さを備えないその声の主は、馴染みがあるものだった。
堅牢な壁を思わせるかのような恵まれた体躯。
そこに詰め込まれた筋肉は南国の木の実の繊維のように凝縮されており、熊をも撲殺出来るのではと思わせる程に逞しい。
それに伴う強固な骨格を備えているのも、岩のような顔立ちから容易に見て取れる。
大の字になって無様な倒れ方をした青年を見下ろすその鋭い瞳に、悪感情の色は無い。
とは言え、無条件に友好的であるほどこの男は甘くもなかった。
呼びかけに対して首だけを起こして応えた青年……エルヴァンスに対し、男はうっすらと唇の端を釣り上げて返す。
「生きてるか?」
腰に両の手をあてながら、そう一言だけ呟いた。
『……な、なんとか……』
沈みかけた意識の覚醒に伴い訪れたのは、全身を駆け巡る確かな『痛み』だった。
身体を起こそうとするも侭ならず。
声にもならぬ声を発しながら、疼痛に抗おうとするも侭ならず。
「あれだけしたたかに打ちのめされたのに生きているとは。運が良いな」
地に片膝をつき、男はエルヴァンスへと手を差し伸べる。
『ボーダクス、さん……?』
ボーダクス、と呼ばれた男に対して疑問符の交えた声音は、この男の風格に似合わぬ行為が故だろう。
鉄面のような厳めしい顔が、うっすらとだが微笑む様子に驚きを隠せない。
呆然とした表情を浮かべるエルヴァンスだったが、ボーダクスは意に介さなかった。
「早く陣に戻るぞ」
エルヴァンスが返事をする前にその手を引き身体を立たせる。
全身を走る痛みに思わず唸るが、それもまたボーダクスは意に介さなかった。
―――――
北の大地に相応しい針葉樹に囲まれた野営地。
うっすらと雪を履く地面の土は、固く冷たい。
昼に注いだ陽の光の温もりなど留まるはずも無し。
緩やかであっても風が頬を撫でれば、糸の刃が掠めたが如く。
空に星が見え始めれば、あらゆる生物達が身を縮めるような世界。
それが、大陸タムリエルの北に位置する、スカイリム。
雪と氷に包まれた土地。
野営地に張られたテントの中には、負傷した兵士達が冷気と熱に喘いでいた。
負傷した部位から発する熱。
無慈悲なまでに冷たい風と土。
心も灼かれ、身体も凍える。
重傷と言えるほどの傷を負った兵士達の声が、耳に残って仕方がない。
「まだ痛むか?」
重傷を負った兵士達の隣のテントには、エルヴァンスとボーダクスが休んでいた。
『いえ……もう大丈夫です』
「そうか。運が良かったな」
その言葉に複雑な感情を持ったのか、エルヴァンスは首を傾げて表情を曇らせる。
ボーダクスはその様相を眺め、鼻で笑う。
「今は余計な事を考えずに休め」
『……』
その言葉は彼なりの気遣いだったのだろうが、すぐ隣のテントから聞こえて来る呻き声の前にして、居た堪れない。
眉をしかめたり、頭を掻いたり、首を捻ってみたりと、まるで落ち着かなかった。
しばらくして、
「焚き火の前に座る、あの大男……知っているか?」
ボーダクスが呟く。
エルヴァンスは首を横に振って答えると、なお言葉は続いた。
「あの男は元々スカイリムの出身ではない。行方不明になった娘を探してスカイリムに来たそうだ」
焚き火の前で食事を用意する兵士達。
この戦についての事と、時折酒や女についての冗談を交えながら朗らかな体(てい)で会話している。
大男はそれに混じる事無くただ炎を一点に見据えていた。
「酔狂なことだ。生きているかも解らんもののために、そこまでするとは」
発言の内容自体は毒を含んだものだったが、その声音は相変わらずだ。
『……』
エルヴァンスは口を噤(つぐ)む。
「だが、親とはそういうものなのかもしれんな……お前はどう思う、エルヴァンス」
ボーダクスは目だけ動かし、隣の青年を見やる。
「生きているのか死んでいるのか解らぬ娘のために戦に飛び込んだあの男を……愚かと思うか、共感するか、またはそれらとは違う感情を持つか」
しばしの、間。
『……僕には子供がいませんから、解らないですよ』
不貞腐れたような言葉を返したエルヴァンス。
それに対して大きな溜息を吐く、ボーダクス。
「そんな頭の悪い返答をされるならば、質問しなければよかったと俺は思っている」
たしなめる意味合いも含んだその言い回しを受けた青年は、流石に後悔したようだった。
目を伏せ、視線を反らす。
ボーダクスは何も言わずに瞼を閉じた。
二人の間に、またしてもしばしの沈黙。
緩やかな風が吹いて樹木の葉が細波のような音を鳴らす。
遠くから聞こえる鳥の鳴き声はフクロウだろうか。
それともソレに似た声音を持つ別の鳥か。
『……僕には……』
静寂の空間を打ち破るべく、エルヴァンスは弥縫の言葉を紡いだが侭ならない。
「……変な事を聞いて悪かった。とにかく今は休め」
『すみません』
謝罪の句を一言述べて、エルヴァンスはボーダクスに背を向ける。
そしてそのままの状態で、
『少しだけ……気持ちは解ります。僕も自分のために戦っているわけじゃないので……』
と、心の奥の言葉を洩らした。
まるで独り言を呟いたかのように、ぼそりと。
その言葉の後、エルヴァンス、ボーダクス共に何も発しなかった。
そしてそのまま。
二人は、眠りについた。
身体を休ませねばならないから。
心を休ませねばならないから。
明日を生きるために。
明日、また生き残るために。
明日の先も生き残り続けるために。
いつ終わるか解らぬ、戦いを生きぬくために……。
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◆ 第2話 ◆ 《 終わらない杞憂 》
◆ 目次 ◆
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